福島笑顔展

とりあえず笑顔からはじめよう

地震、雷、火事、オヤジ、津波、原発、風評被害。

イヤハヤなんとも、永井豪。

 

震災後の郡山で、空いたスペースとなった場所で福島笑顔展をやると敬愛するフォトグラファー西坂御大が仰るので、あまり何も考えず/考えられず、とりあえず出す事に。

 

3.11プレイバック

 

地震後、会社の被災状況確認した後、社員散開、それぞれの自宅への帰途を急ぐ。

 

我が家も木造築50年以上経つ中古家なので、はてさて大丈夫だろうか?と案じつつ戻ると、存外に瓦が1枚落ちている程度で、兼ねてからグラグラしていた玄関脇のコンクリートの小さな塀が倒れていた以外には砂壁の塗り壁表面がヒビ割れ剥がれていた以外に家そのものには大きな被害なく、それが逆に驚いた。

 

もちろん、食器棚、本棚の類はガチャガチャになっているのは、あの規模の地震であるからしてどこの家でも当り前の被災光景である。

さて、その後の経過は、冒頭の文章のように、福島県民周知の事態が先の見えない形で進行、展開し、人災であるとの議論の絶える事はない。東京電力だ、国だ、あれやこれやの責任を問う声、声、声。

 

マスメディアから、近頃流行りのソーシャルメディア。Twitterからfacebookに至るまで極から極の話題が、それこそ津波のように伝播していく。その波の中に呑み込まれる者、距離を置くもの、そもそもそんな情報を得るためのデバイスを失った方々。全く情報の届かない陸の孤島となる場所、地域。分断される様々なインフラ。

 

3.11以降、目に見えて変わった物、事。目に見えず変わった物、事。

あらゆるものが価値が逆転した。

 

笑うこと、ほほえむこと。

 

笑えない、ほほえめない状況にある人が、もちろん多数いることも承知しながら、それでも他者にほほえみ。他者と共に笑うことのできる人。そのような存在と共にある、共にいる人たちは幸いだ。

 

ともすれば、たかだか目の前の仕事に追われ、生活に追われ、ほほえむ事すら忘れてしまう自分がある/いる。

 

会社の臨時休業中の頃「情報を伝える」ことを少なくとも生業にする自分が何をできるのかを自問自答していた。

 

ボランティアに行くもの、災害救助に向かうもの、県外の安全な場所へ避難するもの、自宅でまったり過ごすもの、退避を余儀なくされた方々、人を探すもの、人それぞれの時が経過する中、決してアクティブではない自分が、しかもほとんど仕事馬鹿で生きてきたものが、今さら何をあらたまって出来るだろうか?

いや、また、あらたまって何かをやるという事でもなかろう。

浮き足立つことなく、今、立つこの場所でできること。

 

そしたら、それは、やっぱ人生の時間の多くを捧げてきた仕事を通じて何事かをやっていくしかないよな〜と。

だって仕事馬鹿じゃんオレ。幸にも不幸にも。

 

幸いにして、会社勤めではあるものの、個人で生業っていた頃の仕事の延長線上の仕事をさせていただける環境にも恵まれ会社での生業と個人の培った生業との間の領域に電子書籍発行業務があった。

 

これだ!と。

 

電子書籍が話題になったのはiPadが発売になった昨年からの事であるが、その特性として低コストで世界88カ国へ課金コンテンツをパブリッシュ(出版)し、流通できることがある。世界88カ国とは、アップルのAppStoreのマーケットが開かれている数ですが…。

 

スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマと、幸か不幸か全世界へ知れ渡ってしまったここ福島の地名。

 

そのフクシマの内にある郡山から福島の現実を扇情的にではなく、記録的に淡々と定点観測的にきちんとパブリッシュするなら、事態の推移を見たいと思う世界88カ国の興味、関心を持つ人々がいるのではないか?と。

 

被災の外にある東京首都圏からパブリッシュするのではなく、被災の内にある、でも限りなく被災というには限りなく近い傍らにいる隣人である郡山に住まうものとしてフクシマをルポし、撮り、インタビューし、継続していければ…。

 

そこには、様々なメディアから断片的にもたらされるフクシマよりも、もっと生きた、豊かなフクシマの姿をちゃんと伝えられるかも知れない。

 

きっと世界中の人はフクシマは放射線の焦土と化したかのように想像を逞しくしている、そう思い込んでいる人が少なからずいると思われます。

 

だから内側に住まう私たちが、私たちの等身大の姿を、暮らしを、風土を、これからを、世界中にフクシマ発で伝えることは大切だ。と思ったのです。

 

復旧もあるでしょう、復興もあるでしょう、挫折も、誹謗も中傷も、風評も、レッテルも。想像の外にある様々な現実があるでしょう。

喜怒哀楽の大きなうねりといった、人間的で根源的な、様々なものが、ことが。

 

笑うこと、ほほえむこと。

 

もし、郡山に住まう私が「隣人」として様々な現実と向き合うフクシマの人たちと寄り添うように話を聞き、その情の報せに向き合っていけたなら。

 

東京から来たよそ者に根掘り葉掘り、あれこれ無遠慮に聞かれるよりは、その小さな場所、局所で、笑いながら、ほほえみながら、情けの報せに耳を傾けられるだろうと思ったのです。

 

そのような交わりの中から、いただいた情けの報せのうち、パブリックに開いていった方がよいと思われるものをパブリッシュすることができたなら。

 

そのパブリッシュの有効な一つの方法として電子書籍という方法は使えるなあ。

と思ったのです。

 

それが3.11を通過した後に、辿り着いた私が出来ること、したいこと、でした。

 

どのようにすれば良いのか。何をまずやったら良いのか。

まだ皆目検討がつきません。

 

でも、決めました。

 

それが3.11を通過した自分にとって出来ること、したいこと、やれること、与えられてあること、居場所をつくること、なのです。

 

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コメント: 1
  • #1

    Curtis (月曜日, 23 7月 2012 13:04)

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